この話に続くエピソードは2つのバーションがあります:
1.もしナチスドイツのカメラの工場に爆弾を落とされたら、すごく困るから、中立のスウェーデンのハッセルブラッドに作るように頼みました。これがハッセルブラッド1600Fと1000Fの誕生です。
2.スウェーデンの上空を飛んでいたナチスドイツの飛行機が打ち落とされて、その飛行機の中には航空写真用のカメラがありました。スウェーデンのロイヤル・エア・フォースがヴィクター・ハッセルブラッドに、こういうカメラを作ることができるか聞きました。ハッセルブラッドの返事は「いいえ、もっといいカメラを作れます。」でした。
「1940 - A German military aeroplane was shot down over Swedish territory, and an areal camera was found inside it. The Royal Swedish Air Force sent an enquiry to Victor Hasselblad: 'Can you make a camera like this?' 'No, I can make a better one', was the answer.」
戦争が終わったころに連合軍は、イエナにあったカールツァイスの本工場からレンズのデザイン設計と従業員を、新しく分裂してできた西ドイツへ動かしました。残った工場はロシアのものになりました。ロシアは徐々にイエナから別々の工場(ウクライナのキエフを含む)に製造機器を移動しました。キエフの工場はその時から今でも、軍隊用の装備品類を作っています。
1950年代に、キエフとモスクワのKMZの工場でキエフ88の元々のデザインのカメラの製造を始めました。ハッセルブラッドは、ロシアが1600Fのデザインを盗んだ、またはコピーしたと主張しました。ロシア側は、ハッセルブラッドとキエフは、そのナチスドイツのカメラを元にして別々に作ったのだと主張しました。...歴史ですね。たぶん今はもう、100%本当の話を知る人は誰もいません。
とにかく、ウクライナのキエフ市で「Salyut」(サリュット)というカメラを1957年か1958年に製造を始めました。このカメラはキエフ88の元でした。サリュットは三種類ありました。そのうちの一つは1/1500秒のシャッタースピードとセルフタイマーがありました。二つ目にはセルフタイマーがありませんでした。また三つ目には1/1000秒までのシャッターがありました。この三つ目のサリュットはZenit 80(ゼニット80)のネームプレートもあるそうです。サリュットは一つずつ手作りでした。その時代にサリュットはすごく高かったです... 普通の人の6か月分の給料でした。
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